今から千百年も昔のことです。醍醐天皇(在位897〜930)はある夜、夢の中に菩薩(仏さま)が現れ、お告げを受けられました「私は、伊勢の国鶏足山に住み、民衆の安穏を祈っています。今この国は乱れ、田畑は荒れ人々は大変困っています。どうか帝の力でこの災禍を取り除いてください」と言われ消えてしまいました。夢から覚められた帝は不思議に思われ、すぐさま勅使を鶏足山に使わされました。
都からはるばるとやって来た勅使はふもとで道に迷って困っていました。そこへ「三本足の鶏」が現れると、勅使の裳裾をくわえ山頂へと案内してくれました。山頂には、清泉がこんこんと湧き出て老杉悠々と繁り、あまりの幽玄さに勅使は立ちつくしていました。すると、いずこからともなく老僧が現れ「勅命により、ようこそ鶏足山にお越しくださいました。私がご案内します」と言って御堂に上がり、扉を開きますと、身の丈七尺五寸(2.2m)の眩いばかりの千手観音さまが祀られていました。老僧は、うやうやしく千手観音さまを拝して「この観音さまは、天照皇太神さまお手ずから彫られたもので、数十年来、天照皇太神さまよりつかわされた神職二人がお仕えしておりましたが、その後は二羽の鵲(カササギ)がお世話してまいりました。千手観音さまは、人々の願いに応じてさまざまに姿を変えられ、お救いくださるありがたい仏さまでございます」 と申されると姿を消されました。ハッとわれに帰った勅使はたいそう驚き、あの老僧こそは、千手観音さまの仮のお姿であろうと思って、一心に伏し拝み、急ぎ山を下りました。
勅使の報告を受けられた帝は、ご霊夢の真実に驚嘆され、早速京の都で高名な仙朝上人を中興開山として遣わされました。帝は諸国から銘木を運ばせ、伽藍の建立を命ぜられました。仙朝上人は勅命をありがたく拝して、早速腕の立つ大工や細工者を野登山に送り込み工事に取り掛かりました。こうして延喜七年(907)作業が始まり、同十年(910)四月七日に見事な伽藍が建立され、厳かに落慶法要が執り行われました。
以来680年の間、寺僧は100人を超え、朝夕の読経礼拝の響きは山々に流れ、野登寺はたいそう繁栄しました。
ところが、420年前の天正十一年豊臣秀吉の亀山城、峰城攻めの際、伽藍はことごとく焼き払われ、寺領は没収されました。古来野登寺は亀山城主の祈願所でありました。江戸時代に入ると慶長六年(1601)野登寺第二十八世盛栄は、亀山城主関長門守一政公の寄進により本堂、庫裡、鐘楼堂を再興しました。それ以後、津城主藤堂高次公はじめ、亀山城主代々の祈願所として厚い庇護を受けてきました。
上寺は元禄十四年(1701)亀山城主板倉重冬公により本堂が再建され現在に至っています。
享保二年三月(1717)野登寺第三十二世敞栄のとき、城主板倉重治公は新たに下寺を建立して、護摩堂、庫裡、山門、本尊千手観音さまを寄進され、祈願所とされました。
まことに千手観世音菩薩の霊応霊感はありがたく、こんにちも多くの檀信徒が参拝されます。
※鵲(カササギ)=全体は金属光沢の紫色、尾が長く、頭、背、胸、下腹は黒、腹と肩は白く目立つ。カシャ、カシャと 鳴く(天照皇太神と縁が深い鳥といわれます)
※中興開山=一度盛んになったものを、再び盛んにすること
野登寺のご本尊である千手観世音菩薩(秘仏)の御開帳は60年に1度と伝えられています。けれどその間に半開帳があるため、実質は約30年ごとに行われてきました。ほとんどの寺院のご本尊である仏像は偶像崇拝の対象であるため目に見えますが、祈祷を中心とする野登寺は、神道による神社の本殿の扉と同じく普段は堅く閉ざされており、祭祀の時にのみ扉が開かれることと類似し、開帳の時だけしかご本尊をみることができません。
前回の御開帳は2004年(平成16年)であり、ご拝観後、非常に多くの方々から「観音様から力を頂けて良かった」とのお言葉を頂戴しました。

井戸から現れた千手観音さま
井戸の中から現れた観音様のお話です。
昭和53年(1978年)ごろ、ある老婆が、毎晩、不思議な夢をみました。それは自分の実家の井戸に観音様が埋まっているので掘り出してほしいというお告げでした。老婆より知らせを受けた実家では早速、井戸をさらえましたが何も出てきませんでした。それでも老婆の夢は続きました。
老婆の実家では2回にわたって井戸をさらえても何もでなかったので、新しい観音像を買い入れてお祈りしましたが相変わらず夢は続きました。そして3回目に井戸をさらえたところ、色はくすんでいたが、一体の観音様(千手観音様)が出現しました。
この観音様を近くのお寺で預かってほしいと相談したところ、ある行者より野登寺を紹介されました。このような経緯で野登寺の本尊と同じである千手観音様はこのお寺へ参られたのです。
拝観の際には真言:オン バサラ タラマ キリクと唱えましょう。

雨乞い
延喜十四年(914)この地は、大干ばつにみまわれて、井戸水は干あがり、飲み水は無く命より大事な稲はつぎつぎと枯れてゆきました。困った村人たちは、相談の結果、ののぼりさんの仙朝上人に雨乞いのお願いに行きました。
仙朝上人は村人の願いを快く聞き、「請雨の願」をかけて、千手観音さまに昼も夜も一心にお願いされました。結願の二十一日目の明け方、仙朝上人の前に白髪の老人が現れて「お堂の北東にひとつの壺を置く、汝、柄杓で中の水を汲み壺のまわりにまくべし」と告げると姿が見えなくなりました。
仙朝上人は驚いて、すぐさま言われた場所へ行ってみると、直径が三尺ほどの大きな壺があって、八分目ほどの水が入っていました。仙朝上人はお告げの通り、柄杓を持ってきて壺の水をまきました。すると青天は、にわかにかき曇り、稲妻と雷鳴がとどろき、大粒の雨が落ちてきたかと思うと、盆の水を引っくり返したような大雨になりました。村の人々は驚くやら喜ぶやら、雨に濡れるのも忘れて地にひれ伏し、お礼を申し上げたのでした。
仙朝上人はその場所を掘って壺を納められ雨壺の社とされました。
その後、村人たちは干ばつが続くとみんなで、ののぼりさんにお参りし、仙朝上人がされた祈願を真似て雨壺の社に一心にお願いしますと、必ず大雨の恵みを受けることができました。村人たちはこの不思議な霊力のある社を、雨壺さんと呼んで今でも大切に信仰しています。
※ののぼりさんの雨乞いは、大永二年(1727)現在の亀山市、四日市市、鈴鹿市、津市芸濃一帯の村人が列をなして雨乞い登山をしたという記録が古文書に残っています。四日市市日永のつんつく踊りも、ののぼりさん参りの文句があり、当時の村人の観音信仰の厚さを感じます。
子宝地蔵尊
境内庫裡の前には清泉があり、そのせせらぎには、自然石四枚の石橋が架かっています。その石橋の裏側左右にそれぞれ一体づつお地蔵さまが彫られています。
このお地蔵様は、野登寺第四十五世照空上人が、幼子を亡くした母親の願いを聞かれ、彫られたといわれます。幼くして亡くなった子どもたちが、次の世には元気な子どもで生まれ変われますように、との悲願が込められたお地蔵さまです。
近郷の娘たちは結婚の話が決まると必ず、ののぼりさんに参拝して石橋を渡り、お地蔵さまを手で触れて、子宝の授かりと安産の祈願をしたといわれます。
大人に言われるまま、無邪気に石橋を渡り、元気に遊ぶ子どもたちの姿は必ずやお地蔵さまに通じることと信じられています。
※照空上人=菰野町竹成出身で喜捨を求め竹成に嘉永5年〜慶応2(1852〜1866)年五百羅漢を完成させ、竹成の上人、または神瑞和尚と呼ばれていた。
太平洋戦争の頃、ののぼりさんの梵鐘は軍の命令で供出されることになりましたが、嫁落し(尾根参道)から何としても降ろすことができず、そうこうしているうちに蛇谷の底へ落ちてしまいました。
仕方なく梵鐘は途中無くしてしまいましたと、嘘をついてその場を逃れました。やがて戦争が終わり、平和になったので梵鐘を引き上げることになりました。ところが深い谷底から僅か数人の人手で簡単に上げることができたといわれています。
不思議な梵鐘です。その響きは「鶏足山のはるかなる歴史」へのロマンを感じさせます。

本堂の中には不思議な形をした石があります。この石のことを弥勒石と言います。
この石を持ち上げるとズッシリと重く感じますが、願い事をしながら持ち上げた時に軽く感じれば、その願いはかなうと言い伝えられています。
願い事をした後、真言:オン マイタレイヤ ソワカと唱えて持ち上げてみましょう。

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