本文へスキップ

真言宗 御室派 鶏足山 野登寺  しんごんしゅう おむろは けいそくざん やとうじ

TEL.

〒519-0223 三重県亀山市安坂山町2033-1

野登寺(上寺)についてCONCEPT

明治後期頃の略絵

 上絵は、1935年(昭和10年)の開帳(開扉)記念として配布された扇子に描かれた、野登寺(上寺)の略絵です。画像をタッチしますと拡大します。
 
 この絵が、いつの時代の景観をもとに描かれたものかは定かではありません。しかし、山内の配置や堂宇の様子から、少なくとも明治後期頃までは、この絵に近い姿であったと考えられています。
 
 当時の野登寺には、寒松堂や大師堂、御池の善女龍王社などが建ち並び、霊峰の山中に多くの堂宇が静かに佇んでいました。その後、時代の流れとともに寒松堂、大師堂、御池の善女龍王社は失われ、山門も建て替えられ、往時の景観は大きく姿を変えました。
 
 それでもなお、この略絵には、かつての野登寺が持っていた山岳霊場としての荘厳な空気と、人々の篤い信仰の面影が静かに描き残されています。


七堂伽藍

 野登寺(上寺)の略絵からは、かつて本堂、庫院(庫裏)、鐘楼(鐘堂)山門寒松堂大師堂雨壺社など、多くの堂宇が建ち並ぶ壮麗な七堂伽藍の姿をうかがうことができます。しかし、長い歳月の流れの中で姿を変え、現在では寒松堂と大師堂が失われ、往時の景観を完全な形で見ることはできません。


本堂、庫裏(庫院)、鐘楼(鐘堂)

亀山市指定文化財(1971年〈昭和46年〉指定)
 1601年(慶長6年)、亀山城主 関一政 により、野登寺の本堂、庫裡(庫院)、鐘楼(鐘堂)、山門が再建されたと伝えられています。
 本堂・庫裡(庫院)・鐘楼(鐘堂)は、その後も長い歳月の中で幾度となく修理と修復を重ねながら、大切に守り継がれてきました。そして1971年(昭和46年)には、これら三堂が亀山市指定文化財に指定されました。さらに2004年(平成16年)の修復では、往時の姿を尊重しながら、当時の姿を忠実に再現する形で修復が行われています。









梵鐘

野登寺梵鐘供出の逸話
 太平洋戦争の頃、ののぼりさんの梵鐘は軍の命令で供出されることになりましたが、表参道「嫁落としと呼ばれる場所」から何としても降ろすことができず、そうこうしているうちに蛇谷の底へ落ちてしまいました。
 仕方なく梵鐘は途中無くしてしまいましたと、嘘をついてその場を逃れました。やがて戦争が終わり、平和になったので梵鐘を引き上げることになりました。ところが深い谷底から僅か数人の人手で簡単に上げることができたといわれています。
 不思議な梵鐘です。その響きは「鶏足山のはるかなる歴史」へのロマンを感じさせます。



鎮守御社 雨壺社

雨乞いの壺
 914年(延喜14年)この地は、大干ばつにみまわれて、井戸水は干あがり、飲み水は無く命より大事な稲はつぎつぎと枯れてゆきました。困った村人たちは、相談の結果、ののぼりさんの仙朝上人に雨乞いのお願いに行きました。
仙朝上人は村人の願いを快く聞き、「請雨の願」をかけて、千手観音さまに昼も夜も一心にお願いされました。結願の二十一日目の明け方、仙朝上人の前に白髪の老人が現れて「お堂の北東にひとつの壺を置く、汝、柄杓で中の水を汲み壺のまわりにまくべし」と告げると姿が見えなくなりました。
 仙朝上人は驚いて、すぐさま言われた場所へ行ってみると、直径が三尺ほどの大きな壺があって、八分目ほどの水が入っていました。仙朝上人はお告げの通り、柄杓を持ってきて壺の水をまきました。すると青天は、にわかにかき曇り、稲妻と雷鳴がとどろき、大粒の雨が落ちてきたかと思うと、盆の水を引っくり返したような大雨になりました。村の人々は驚くやら喜ぶやら、雨に濡れるのも忘れて地にひれ伏し、お礼を申し上げたのでした。
仙朝上人はその場所を掘って壺を納められ雨壺の社とされました。
 その後、村人たちは干ばつが続くとみんなで、ののぼりさんにお参りし、仙朝上人がされた祈願を真似て雨壺の社に一心にお願いしますと、必ず大雨の恵みを受けることができました。村人たちはこの不思議な霊力のある社を、雨壺さんと呼んで今でも大切に信仰しています。

※ののぼりさんの雨乞いは、1727年(大永2年)現在の亀山市、四日市市、鈴鹿市、津市芸濃一帯の村人が列をなして雨乞い登山をしたという記録が古文書に残っています。四日市市日永のつんつく踊りも、ののぼりさん参りの文句があり、当時の村人の観音信仰の厚さを感じます。


石橋地蔵

子宝地蔵尊
 境内庫裡の前には清泉があり、そのせせらぎには、自然石四枚の石橋が架かっています。その石橋の裏側左右にそれぞれ一体づつお地蔵さまが彫られています。
 このお地蔵様は、野登寺 第45世 照空上人が、幼子を亡くした母親の願いを聞かれ、彫られたといわれます。幼くして亡くなった子どもたちが、次の世には元気な子どもで生まれ変われますように、との悲願が込められたお地蔵さまです。
 近郷の娘たちは結婚の話が決まると必ず、ののぼりさんに参拝して石橋を渡り、お地蔵さまを手で触れて、子宝の授かりと安産の祈願をしたといわれます。
 大人に言われるまま、無邪気に石橋を渡り、元気に遊ぶ子どもたちの姿は必ずやお地蔵さまに通じることと信じられています。

※照空上人=菰野町竹成出身で喜捨を求め竹成に1852~1866年(嘉永5年~慶応2年)五百羅漢を完成させ、竹成の上人、または神瑞和尚と呼ばれていた。

弥勒石

願掛けの弥勒石
 本堂の中には「弥勒石」と呼ばれる不思議な石があります。
 この石は、普通に持ち上げると重く感じますが、願い事を念じながら持ち上げた時に軽く感じられれば、その願いはかなうと伝えられています。
 願い事をした後、弥勒菩薩の真言 「オン マイタレイヤ ソワカ」 と唱えながら持ち上げてみてください。
 古くから多くの参拝者に親しまれてきた、野登寺に伝わる祈願の石です。



大師堂跡

大師堂跡と弘法大師石祠
 鐘楼から北東15 m先には、かつて弘法大師をお祀りする大師堂がありました。しかし、大師堂がいつ頃までその地に佇んでいたのかを伝える記録は残されていません。現在は、大師堂跡の北側奥に石祠が建てられ、弘法大師がお祀りされています。




寒松庵(寒松堂跡)

寒松堂から寒松庵へ
 1628年(寛永5年)、藤堂高虎公より如意輪観音および高虎公の尊像(あるいは絵像)が寄進されたとの記録が残されています。「寒松堂」の名称は、高虎公の院号である「寒松院」にちなむものと考えられています。
 1830年(文政13年)に行われた開帳に際しては、「野登りの観音」として信仰を集めた千手観音の御開帳とともに、津藩領主であった藤堂高虎公の守り本尊である如意輪観音と高虎公像を拝観させてきたことについて、これまで寺社奉行の許可を得ていなかったが差し支えないかを伺う願書が残されています。また、亀山城主に対して本尊破損の修理を願い出た記録も伝えられています。
 これらの記録から、1830年頃に寒松堂および堂内に安置されていた如意輪観音の修復が行われた可能性が高いと考えられます。
 その後の寒松堂に関する詳しい記録は残されていません。しかし、現在では如意輪観音は下寺へ移され、寒松堂があったとされる場所には茶所が建てられています。この茶所は、往時の寒松堂の名を後世に伝えるため、その由緒にちなみ「寒松庵」と名付けられています。



山門(伽藍の入口)

石垣に残る往時の山門の面影 
 1601年(慶長6年)、野登寺は本堂とともに山門も再建されたと伝えられていますが、当時の山門は現存していません。現在の山門の左右に残る大きな土台の石垣からは、往時には壮大な山門が建てられていたことがうかがえます。

 山門は、野登寺の伽藍へ入る正式な入口として、古くから参拝者を迎えてきました。現在の山門は、2004年(平成16年)の修復事業の際、檀信徒の皆様からの多大なるご寄進により再建されたものです。野登寺を象徴する建造物の一つとなっています。




野登寺 御池(善女龍王の池)

善女龍王(ぜんにょりゅうおう)
 御池(善女龍王の池)は、本堂から北東約200mの位置にあり、山門から北側の参道を通って向かいます。

 この池には善女龍王が住まわれると伝えられ、古くから雨乞いや五穀豊穣をはじめ、さまざまな祈願を行う霊池として信仰されてきました。善女龍王は、水や雨を司る仏教の龍神として広く信仰されています。

 野登寺の記録によれば、1610年(慶長15年)に松平下総守清匡公が上寺に御池を掘らせ、善女龍王を勧請して請雨の秘法を修したところ、たちまち慈雨が降り田畑を潤したと伝えられています。その霊験に深く感じ入った清匡公は観音信仰を篤くし、さらに泉水を掘り、丘を築いて住僧の安下所としたと記されています。

 御池は、どれほど旱魃(かんばつ)の年でも水が尽きることはなかったと伝えられ、地域の人々から神聖な場所として大切にされてきました。古くは修行者や参拝者が池の水で身を清め、祈願や参拝に向かったとも伝えられています。

 1980年代には北側道路工事の際に土砂が流入し、池の大部分が埋まりましたが、現在も湧水を湛えています。今なお祈願の場として信仰されています。

 また、御池は古く「辨才天」とも伝えられるなど、呼び方はさまざまであったようです。水神信仰と龍神信仰が重なり合った霊地であったと考えられています。



野登寺 天壺伝承の湧水地

天から頂いた壺
 野登寺の縁起には、延喜14年(914)、仙朝上人が観音の導きによって発見した霊水の壺「天壺」が記されています。本堂から北東へ約100メートル、山門から善女龍王の池へ向かう参道の途中を分岐した先には、現在も清水が湧き出る湧水地があり、天壺伝承にゆかりの地と考えられています。

 縁起によれば、仙朝上人はこの霊水を用いて雨乞いの祈祷を行い、大雨を降らせて人々を救ったと伝えられています。その後、天から授かった壺であることから「天壺」と名付けられ、やがて雨乞いの霊験によって「雨壺」とも呼ばれるようになりました。

 現在、この地に天壺を示す明確な遺構は残されていません。しかし、付近では昭和47年(1972)の道路整備による地形改変が行われており、その影響によって往時の姿が失われた可能性もあります。それでもなお清らかな水は絶えることなく湧き続け、千年以上にわたり語り継がれてきた天壺伝承を今に伝えています。



野登寺 初願堂跡

野登寺境内の入口に建てられていた堂跡
 参拝者はここで最初の祈願を行い、境内へ入ったと伝えられる。現在も石垣に往時の面影を残しています。

 野登山の表参道は、かつて深い山々を縫うように続く険しい道でした。現在の「ゆめ広場」の辺りは、尾根沿いに細い山道が続き、一歩踏み外せば谷へ落ちかねない危険な場所であったことから、人々は畏れを込めて「嫁落とし」と呼んでいたと伝えられています。

 その難所を越え、なお山道を登りゆくと、やがて霧深き木立の先に、かつて「初願堂」と呼ばれる小さなお堂が静かに姿を現しました。徒歩でしか辿り着けなかった時代、巡礼の人々は、このお堂を目にした瞬間、ようやく野登寺の聖域へ足を踏み入れたことを知り、深い安堵に包まれたことでしょう。

 初願堂がいつの頃までその地に佇んでいたのか、今では記録も残されておりません。しかし、そこには長きにわたり石仏の観音様がおられ、静かに参拝者を迎え、また帰路を見守り続けてこられました。

 1983年(昭和58年)、野登山反射板の設置に伴い、観音様は別の地へ移されました。さらに歳月が流れ、反射板もまた姿を消し、今では往時を偲ばせる石垣のみが、ひっそりと山中に残されています。

 けれども、この場所は今なお、野登寺の境内へと入る結界の地であります。石垣の傍らから参道をさらに登れば、木々の間に現在の駐車場や石門が静かに姿を現し、訪れる者を霊峰・野登寺の世界へと誘ってくれます。

※初願堂跡は参道を石門・駐車場から南側へ140 m下った先にあります。




国見石

国見石(展望所) 
 野登山山頂から東側に国見石があります。現在は鉄塔が建ち、当時と同じ眺望を確認することはできません。しかし、国見石のあたりは古くから参拝者の休憩所として知られ、亀山の城下や伊勢の村々、遠くは愛知県の山々まで見渡せる絶景の場所であったと伝えられています。よく晴れた日には、霊峰・富士山まで見えたと言われています。



奥の院 入定石(仙の石)

入定石と仙朝上人の伝説  
 野登寺の縁起には、野登山(鶏足山)西側の仙ヶ岳に「入定石」と呼ばれる巨大な岩があると記されています。伝承によれば、開山・仙朝上人がこの岩の下で入定されたことから、その名が付けられたといわれています。入定石は高さ三丈余(約9メートル)、正面七尺余(約2.1メートル)の大岩です。また、仙朝上人の入定石にちなみ、この地を仙ヶ岳、また岩は仙の石とも呼ばれています。
 
 仙の石は野登寺の奥の院とされており、本堂が現在の信仰の中心であるのに対し、仙の石は野登寺の歴史と信仰の源流を今に伝える場所です。本堂と仙の石の両方を参拝することで、野登寺の信仰だけでなく、開山以来受け継がれてきた歴史にも思いを巡らせることができます。現在、仙の石へは複数の登山道がありますが、本堂と奥の院を結ぶ仙鶏尾根は急峻な岩場や痩せ尾根が続く険しい道として知られており、このルートでの参拝は容易ではありません。これは、かつて本堂から奥の院へ向かう道のりが、単なる移動ではなく、修行の意味合いを持つ参拝路でもあったためと考えられています。
 
 また、いつの頃からか、この岩は貴重な石であるとの噂が広まり、戦乱の時代に近江国の村人たちが一部を切り取って持ち帰ろうとしたと伝えられています。しかし帰路で災難が相次ぎ、村へ持ち帰った石も夜になると光を放ったため、人々は恐れをなし、翌日には元の場所へ返したといわれています。現在も入定石には切り取られた跡と返された石片が残されており、仙朝上人の伝説を今に伝えています。この伝説から、この地の石は持ち出すべきではないと考えられてきました。仙の石を訪れた際には、野登寺開山の歴史とともに、先人たちが抱いた畏敬の念にも触れていただければ幸いです。





バナースペース

野登寺

〒519-0223
三重県亀山市安坂山町2033-1

e-mail:yatoji★gmail.com ★を@に変えてください。